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福岡高等裁判所 昭和51年(う)712号 判決

被告人 八尋勝雄

主文

本件控訴を棄却する。

当審における訴訟費用は被告人の負担とする。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人前野宗俊提出の控訴趣意書記載のとおりであり、これに対する答弁は、検察官伊津野政弘提出の答弁書記載のとおりであるから、ここにこれらを引用する。これに対する当裁判所の判断は、次のとおりである。

控訴趣意第一点(法令適用の誤りの論旨)について

所論は、要するに、原判決は、被告人の原判示所為が道路交通法三八条一項後段に違反し、同法一一九条一項二号、同条二項に該当するものとして、右各法条を適用しているが、右三八条一項は、同条項に規定されている「進路の前方」の範囲が犯罪構成要件の内容をなすものとしては不明確であつて、罪刑法定主義を規定した憲法三一条に違反し無効であるから、原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな法令適用の誤りがある、というのである。

しかしながら、道路交通法三八条一項は、「車両等は、横断歩道に接近する場合には、当該横断歩道を通過する際に当該横断歩道によりその進路の前方を横断しようとする歩行者がないことが明らかな場合を除き、当該横断歩道の直前で停止することができるような速度で進行しなければならない。この場合において、横断歩道によりその進路の前方を横断し、又は横断しようとする歩行者があるときは、当該横断歩道の直前で一時停止し、かつ、その通行を妨げないようにしなければならない。」と規定しているところ、右規定の趣旨、目的が横断歩道における歩行者を保護、優先することにあることは言うまでもなく、右趣旨、目的及び右規定の改正経過並びに同法一条に照らして解釈すれば、右に規定されている「その進路の前方」とは、車両等が当該横断歩道の直前に到着してからその最後尾が横断歩道を通過し終るまでの間において、当該車両等の両側につき歩行者との間に必要な安全間隔をおいた範囲をいうものと解するのが相当であり、右三八条一項後段の規定は、車両等の運転者に対して、当該横断歩道により右の範囲を横断し又は横断しようとする歩行者があるときは、その直前で一時停止するなどの義務を課しているものと解される。そして、右の範囲すなわち歩行者との間に必要な安全間隔であるか否かは、これを固定的、一義的に決定することは困難であり、具体的場合における当該横断歩道付近の道路の状況、幅員、車両等の種類、大きさ、形状及び速度、歩行者の年齢、進行速度などを勘案し、横断歩行者をして危険を感じて横断を躊躇させたり、その進行速度を変えさせたり、あるいは立ち止まらせたりなど、その通行を妨げるおそれがあるかどうかを基準として合理的に判断されるべきである。原審において検察官は「進路の前方」の範囲を約五メートルと陳述しているが、これは、この程度の距離を置かなければ横断歩行者の通行を妨げることが明らかであるとして福岡県警察がその取締り目的のため一応の基準として右の間隔を定めていることを釈明したものと解され、必ずしも「進路前方」の範囲が五メートル以内に限定されるものではないのであつて、この範囲は具体的状況のもとで合理的に判断されるべき事柄である。

このように、道路交通法二八条一項が規定する「その進路の前方」の範囲を具体的状況下における合理的な判断に委ねたとしても、そのことから直ちに右概念が不明確であるとは言い難く、通常の判断能力を有する一般人が具体的場合にこの判断をするに当り、通常さほどの困難を感ずることはないものと考えられるので、罪刑法定主義が犯罪構成要件の明確性を要請している趣旨に背馳するものとは言い難く、最高裁判所昭和四八年(あ)第九一〇号同五〇年九月一〇日大法廷判決(刑集二九巻八号四八九頁参照)が判示する判断基準(ある刑罰法規があいまい不明確のゆえに憲法三一条に違反するものと認めるべきかどうかは、通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合に当該行為がその適用を受けるものかどうかの判断を可能ならしめるような基準が読みとれるかどうかによつて決定すべきである。)に徴しても、右三八条一項の規定が、犯罪構成要件の内容をなすものとして明確性を欠き憲法三一条に違反するものとは認められないから、論旨は採用することができない。

控訴趣意第二点(事実誤認の論旨)について

所論は、要するに、被告人が運転していた車両(以下「被告人車両」ともいう。)と歩行者占部ムツ子との位置関係が「進路前方」の範囲外にあつたのに、これをその範囲内にあつたと認定した原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな事実誤認があるというのである。

そこで原審記録及び当審における事実取調の結果を総合して考察するに、原判決挙示の各証拠によれば、原判示事実はこれを十分に肯認することができる。すなわち、右証拠ごとに原審の検証調書、原審証人林田光明、同小野博文、同植田幸蔵、同占部ムツ子の各証言、交通事件原票中の被告人作成の供述書によれば、本件横断歩道は、ほぼ東(北湊方面)西(本町方面)に通ずる幅員約一二メートルの幹線道路とほぼ南(浜町方面)北(老松町方面)に通ずる右幹線道路より幅員の狭い道路とが十字型に交差する信号機の設置されていない交差点の西側(本町方面)に設置され、道路標識と道路上のゼブラ模様で標示されていること、同交差点の周辺は店舗、市場等があつて人通りの多い場所であること、右幹線道路には歩車道の区別があり、本町方面から北湊方面へ向かつての見通し状況は、その幹線道路については直線で良好であるが、これと交差している左方老松町方面及び右方浜町方面の各道路についてはいずれも建物にさえぎられて悪いこと、若松警察署交通指導係は、本件横断歩道における車両による歩行者妨害が多いことから、本件当日事故防止と違反者検挙のために交通取締りを実施したこと、現認係林田光明及び採証係小野博文の警察官両名は本件横断歩道の本町方面から向かつて左側端付近に位置して右違反の現認等に従事し、停止係が同所から北湊方面に約一五〇メートル先の若松警察署前路上に、取調係が同警察署内にそれぞれ配置され、現認係と停止係等との連絡は携帯用無線機が使用されていたこと、占部ムツ子(当時五二年)は本件横断歩道を被告人車両から見てその進行方向に向かつて右から左に普通の歩行速度で横断を開始し、三ないし四メートルの地点まで進行したところ老松町方面から本町方面に右折して来た車両があつたので同所で一時立ち止まつたが、右車両の運転手が顔見知りの人で停車してくれたので、引き返す気持ちはなく、同人に会釈しながら同車両の前を通過して横断を続けたこと、被告人は普通乗用自動車を運転して右幹線道路を本町方面から北湊方面に向かい時速約三〇キロメートルの速度で進行し本件横断歩道に接近したが、同横断歩道上を横断している占部に気づかず、その側方約二ないし二・五メートルの地点を一時停止することなく右速度で通過したこと、そのため占部は一時立ち止まつたが、被告人車両の後方から来た車両が停車してくれたので横断を完了したこと、前記林田、小野両警察官は、被告人車両が道路交通法三八条一項後段に違反したものとして検挙するため、林田警察官が直ちに携帯無線機で被告人車両の種別、車両番号等を停止係等に通報し、小野警察官が占部から氏名、住所等を聴取して歩行者妨害違反メモを作成したこと、被告人は右通報を受けた停止係に検挙され、取調係の植田幸蔵警察官から取り調べを受けたが、その際、横断歩道上に歩行者がいたことに気づかなかつた点を弁解したほかは当該違反事実を認めていたこと、がそれぞれ認められる。

被告人の原審公判廷における供述中右認定に反する部分は前掲証拠に照らして措信できず、原審証人占部の証言中「自分が立ち止まつたのは被告人車両が一時停止せずに通過したためではない」旨の部分は、同証言中にある「三台目の車が止まり渡らしてくれた」旨の証言部分並びに原審及び当審証人林田、同小野の各証言と対比してにわかに措信し難く。また、証人林田、同小野の当審における各証言中「右折車両はいなかつた」旨の部分は、原審証人占部の証言に照らしてにわかに採用し難く、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。所論は、占部が本件横断歩道上の被告人車両の進行方向に向かつて右側端から三つ目の白線(すなわち三ないし四メートルの地点)にいたことは、占部の証言から明らかであつて、これと対比して林田、小野両警察官の各証言は信用性に乏しいうえ、両警察官が現認した違反車両と被告人車両との同一性についても疑いがあると主張し、所論指摘の地点において占部が右折車両のため一時立ち歩まつたことは前記認定のとおりであるけれども、原審証人占部は、「車(右折車両)も止まり市場でよく見る人でしたので会釈して前を通りました。」とか、「右折車を見ながら会釈をかけて渡つていたので引返す気持はありませんでした。」と各証言し、これに原審及び当審証人林田、同小野の各証言を合わせて検討すると、被告人車両が本件横断歩道を通過する際に占部が所論指摘の地点にいたままであるとするのは不自然であつて、この点につき原審証人林田、同小野両名は、被告人車両が占部の側方約二ないし二・五メートルの地点を通過した旨証言しているところ、右証言内容は、当審における事実取調の結果に徴しても、終始一貫しているうえ、右両名の現認位置と被告人車両及び占部の各位置との距離はそれぞれ約九・五及び一一・三メートルであり、その間には何らの障害物もなく、右両名が明確に現認し得る状況にあつたことを考え合わせると、十分に信用することができ、また、前記認定の取締態勢及び検挙直後の被告人の言動などに徴して、林田、小野両警察官が現認した違反車両と被告人車両との同一性についても合理的な疑いをさしはさむ余地は見出し難く、これらの点についての原審の証拠価値の判断には経験法則の違背など不合理な点は見当らないから、所論の右主張は採用できない。

そうすると、前記認定のとおり、被告人は、本件横断歩道により横断している占部に気づかず、その側方約二ないし二・五メートルの地点を一時停止することなく通過したことが明らかであつて、前記認定の本件横断歩道付近の道路の状況、幅員、被告人車両の種類、速度、占部の年齢、歩行速度などの具体的状況に照らして判断すれば、占部は道路交通法三八条一項後段の「その進路の前方を横断し」ていたものに該当すると認めるのが相当である。従つて、原判決には所論のような事実誤認はないので、論旨も理由がない。

よつて、刑事訴訟法三九六条により本件控訴を棄却し、当審における訴訟費用を被告人に負担させることにつき同法一八一条一項本文を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 安仁屋賢精 杉島廣利 鈴木秀夫)

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